1931年9月18日の満洲事変に端を発した日本の戦争は、アジア・太平洋に名状し難い破壊と混乱をもたらした。この15年間にわたる無謀で愚かな侵略戦争に終止符を打ったのが、1945年8月15日に玉音放送された昭和天皇の終戦の詔勅、「敗戦宣言」である。この日を記憶し、日本が災禍を及ぼした多くの国々とその人々、そして、戦争に追いやられた日本の兵士、国民に対して、真摯な謝罪と痛切な悔悟の念をこめ、二度と過ちを犯さない誓いを新たにするため、戦後70年の初心に還りたい。
戦後70年は、昭和天皇が英断された敗戦宣言、そして自ら示された平和と復興への願いと行動によって始められた。そこには、「国際社会の信用を得る国家再建のために、皆が一致団結して努力するにあたり、守るべき道を踏み外さず歩むことを子々孫々ともに心すべきであり、常に任重く道のりは遠いが道義に篤く志操堅固であれば国際社会に遅れず共に歩むことができる」と詔勅された言葉の体現があった。
また、当時の吉田茂内閣総理大臣は、復興と平和の実現のため、日本を早期講和条約締結に導きつつ、国民が目指すべき「『平和国家』と名付けた日本の国のかたち」を示した。それは戦後70年間、日本が持ち続けた時代精神でもある。
吉田は、「わが国の指導者が国際情勢に十分の知識を欠き、自国の軍備を過大に評価し、世界の平和を破懷してはばからなかった。その結果、日本の歴史を汚し、国運の興隆を妨げ、人々に子を失わしめ、夫を失わしめ、親を失わしめ、世界を敵として空前の不幸をもたらした。この戦争責任は免れ得ない。」(第6回国会吉田茂施政方針演説)「大戦の記憶、戦争による憎悪、仇敵、不信等、国際間の悪感情は容易に忘却するものではない。別けても、日本が侵略、侵攻した諸外国の対日感情は、国家間、国民間に悩ましい嫌悪となって顕現している現実がある。これが戦争の常であり、決して消滅するものではない」(第11回国会吉田茂施政方針演説)と戦争を振り返り戒めた。
吉田は、国際社会に対しても、これからの「日本の国のかたち」を示し講和に関わる理解を求め、国民に対しては、それをどのように実証するか、施政方針演説において「日本国民が一丸となって、二度と戦争を引き起こさない国家に変貌する努力を国際社会に見せること」を強調した。そこには「平和国家」を目指す「日本の国のかたち」があった。
しかし、私たちは、「日本がこの70年間にわたり戦争を戦うこともなく巻き込まれることもなかったことで、日本が侵略国であって敗戦国であった史実は消せないし、日本軍の残虐暴行が忘却されることもない」という戦争の必然を心に刻まなければならない。従って、戦後繰り返されてきた日本の反省、悔悟、謝罪はなおも続くのであって、講和時に約束した平和国家建設の努力は、その完成が世界に善き影響を及ぼすまで絶えさせてはならないのである。
私たちは、この心意を礎にして戦後70年が始まり、今や「終戦の詔勅」に諭示された平和国家建設の精神が、昭和天皇から今上天皇へ引き継がれ「日本を象徴する平和主義」へと深化していることに思いを致さねばならないだろう。
新憲法と吉田のリーダーシップは、平和国家具現の努力にとって不可欠であったし、私たち日本人が築き上げるべき国の姿を描き、努力する方向を明らかにし、何人も否定できない平和主義と民主主義の理想に向かう国造りを誓約しているのである。
吉田が国民に求めたわが国安全保障の防衛力基盤に関わるコンセンサスは、専守防衛を超える軍備を保有しないこと、外征軍を保有しないこと、世界の文明と平和と繁栄に貢献していくことであった。また戦争放棄に徹することについては、それが決して自衛権の放棄を意味するものではなく、この自衛権の行使によるわが国の安定的な安全保障が国際正義にくみする精神、態度を内外に示し、世界平和のための貢献を惜しまない国民の姿勢を明瞭にする平和主義の基本理念であることを確認している。
平和国家建設への努力を積む日本の姿は、戦争から平和、平和から戦争へと歴史上繰返されてきた悪循環を断ち切ろうとする平和国家の主張を国際社会にアピールする「日本の国のかたち」にほかならない。
吉田が国際社会と日本国民に示した「平和国家」は、無謀な日本の侵略戦争という歴史認識に基づく、日本と日本国民の贖罪の証となるものでもあろう。しかし、この理想とする平和国家実現の流れが未だ途上であるにもかかわらず、この節目に「戦争との距離を縮めようとする法案の成立が急がれている」ことに平和への道が閉ざされる危惧を感じられずにはいられない。
このような時にこそ戦後70の始まりに、国際社会に向かって平和国家建設を誓った初心に還り、再び「日本の戦争観」、「日本のアイデンティティー」を国際社会に示し、国際社会において「日本が果たすべき役割」を再確認したいものである。
前民主党代表 海江田万里